急に意識を失った優花が心配で、テティスは顔を近づけた。
声をかけても返事はなく、すうすうと規則正しい寝息を立てていた。
(薬が効いたのかしら……?)
ファーディナンドがいきなり見知らぬ地に来て、少し興奮しているようなので、休んでもらうように――との指示があり、お茶には眠りを誘う薬草を入れたのだ。
「ユウカ様……」
膝を立てて近くでその様子を見ると、やはり自分より年下の子供のように見える。話をしていても普通の少女で、なぜ彼女が新しい神に選ばれたのだろうか。理由は分からないけど、今この世界を支えるのは彼女しかいない。
この世界――キトは魔物もいる危険な世界で、そのために人々の希望、そして不安を取り除いてくれる神の存在が必要不可欠なのだ。優花がきちんと自分のことを新しい神だと認識しててくれれば、人々の不安はかなり減るだろう。
少しでも早く自覚して欲しいとテティスは願った。
「眠りましたか」
背後から声がして、テティスは慌てて振り返った。
「し、神官長様」
「どうやらお茶に入れた眠り薬は効いたようですね」
優花を覗き込むようにして見るファーディナンドに、テティスは素直に「はい」と頷いた。
「これなら明日の朝までゆっくり眠っているでしょう」
「はい、神官長様」
ファーディナンドは優花に視線を落とすと、薄く笑みを浮かべる。テティスはそれを、新しい神の登場を喜んでいるのだと思った。
ファーディナンドはヴァレンティーネに一番近しい存在。だから他の誰よりも喪失感は大きいのだと思う。
テティスにはその感情を推し量ることはできない。けれど、多分ヴァレンティーネが亡くなったのを一番悲しんでいるのは、彼だろうということくらいはわかる。
それでも継ぐ者がいれば、少しは安心できるかもしれない、と、テティスはちらりと優花を見やった。
「さて、明日からは彼女には、この世界のことなどを少しでも早く学んでもらわないと」
「はい」
「私はこれからそのための時間調整を行いますので、後は頼みますよ」
「かしこまりました」
テティスはファーディナンドに深々とお辞儀をする。
ファーディナンドはかすかな衣擦れの音をさせながら、優花の部屋から出て行った。
***
優花は体をゆさゆさと揺さぶられて、少しずつ意識が覚醒する。
「んん、なに……?」
「起きてください、ユウカ様」
「もー少し……」
「早くしないと神官長様がお見えになります」
パチ。
「それ早く言ってええええ!!」
ガバッという効果音が似合うかのように、勢いよく飛び起きた。
優花がキトに来てすでに一週間が経っていた。その間のファーディナンドのしごき――もとい、神様教育は想像を絶するほどハードだ。
教育の一環として、朝早く叩き起こされる。朝の祈りというのがあるらしい。
それに間に合うように起こされるのだが、なかなか起きないとファーディナンドが直々に起こしに来る。ひんやりと冷たい空気をまとって、幸せな眠りから無理やり引きずり出すのだ。
「やはり神官長様を出すと早いのですね」
「それだけはやめてー。幸せな夢も吹き飛んじゃうよー!」
「……それはすみませんでした」
部屋の片隅には仕切りがあって、その奥はバスルームのようになっているが、ここには水道のようなシステムがないので、井戸から汲んできた水を温めてから持ってきている。
何度も足を運ぶのだろうが、疲れて熟睡している優花は、テティスがお湯を運んでいるのを見たことがなかった。それだけ静かに支度をしてくれているのだろう。それを思うと申し訳ない気持ちになる。
「それよりも、いつもありがとうね」
「はい?」
「わたしが寝ている間にいつもお風呂用意してくれるでしょ? しかもいくら寝ているからって静かにやってくれてるんだろうし」
「それは当然のことですわ」
神という立場から身を綺麗にしておくのは当然らしい。
朝一番で身を清めて、新たな服を纏う。服はまるでギリシャ神話に出てくるような格好といえば分かるだろうか。薄い布を体に巻きつけ、細い紐で胸のすぐ下から腰のあたりまで広い範囲に幾重にも巻きつける。
その後さらに薄い布を肩にかけて、紐にからませ固定する。腰ひもは広範囲にきつめに巻くのでかなり苦しい。それに、この服装は否が応でも体形が分かってしまう。
その支度が終わると、先ほど言った朝の祈りのために、広間に行かなければならない。
人前に出る緊張から胃がキリキリ痛む。
でもこれを終わらせないと朝食にならないのだ。優花は気を引き締めて、大きく息を吸ってから、覚えた祈りの言葉を紡いだ。
***
「かなり慣れてきたようですね、いいことです」
祈りが終わるとファーディナンドは優花の前に現れる。
相変わらず何を考えているのか分らない表情をしているな、と心の中で思う。
それを表情には出さずに、優花は少し笑みを浮かべた。
「ファーディナンドさん、おはようございます」
「おはようございます。それでは朝食の後はいつもの部屋で」
「は、はい……」
いつもの部屋とは、ファーディナンドに与えられた執務室のような所だ。
分厚い本がたくさん並んだ本棚に挟まれている。この世界の歴史をつづった部屋だと言っていたが、文字通りそこに並んだ本はこの世界のことを詳細に描写されていた。
ちなみに言葉と同じく文字もあの光から知識を得たようで、問題なく読むことができた。その辺はありがたかったが、文字が読めると聞いた途端、勉強のレベルが跳ね上がった。
(言わなきゃよかったんだよね。そうすれば口頭で話を聞くか文字を覚えるかどっちかだったのに)
現在ファーディナンドの監視下、優花はあくびを堪えつつ分厚い本と睨めっこの状態だ。
大抵のことは本を読めば分かると一刀両断されるので、ひたすら本を読むしかない。けれど、未だこの世界の概要を書いた本しか読んでいない状態だ。
一体いつまでこの状態が続くのかと思うと、気持ちがどんどん沈んでいく。
はあ、とため息を一つついた。
(でもいまいち分からないなぁ。世界の始まりがすっごいあやふや。神様はどうして不思議な力があったのかな?)
開いたページを指先でトントンと叩きながら、文字を睨むように見る。今見ているのは二百年くらい前のもの。今まで記録のあるところからずっと見てきたが、『神』に関する記述がほぼ同じ。
(――ということは、ヴァレンティーネさんはずっと『神様』としていたのかな。となると人とは違う? でも、なんで一人だけ人と違うんだろう?)
神は神、と言ってしまえばその通りなんだろうが、神話と呼ばれるところの記述がないせいか、なぜ神が存在するのかが分からない。
(普通は神様が世界を作った、とかあるんだけどな。うーん……)
神とはいつから存在するものか分からないものというのは、地球でも同じこと。
でもここでは神は身近に存在している。だからこそ、人とは異なる神という存在に対して疑問を感じた。
「ファーディナンドさん、ちょっといいですか?」
気になると聞いてみたくなるのは仕方ないだろう。
聞いても最後には「そんな馬鹿なことを聞いてないでさっさと本を読みなさい」となるのがいつものことだが。
「なんですか?」
「あの……今読んでる本なんだけど、世界の成り立ちというか、そういったところが不明確なんですけど……」
「そうですね」
「で、神様っていつからいたんですか?」
本当はなんで亡くなったのかも問いたかったが、さすがにそこまでは聞けなかった。
しばらくの沈黙の後、ファーディナンドは持っていたペンを置いた。
「それは、まだ後でのことです」
「でも、神様ってどこから……魔物だってそうだし……」
忽然と始まるこの世界の歴史。
そこには『神』と、それに反するかのように存在する『魔物』たち。でも魔物は統率されておらず、ただ人の心を脅かす。神はそれらから人を救う存在。
それらを知れば、少しは神というものが分かるかもしれない――と思うからかもしれない。
だから知りたいと思ったのだが、ファーディナンドはいつものように取り合ってくれなかった。
「無駄口を叩くくらい余裕があるなら、今日中にその最終巻まで見てください」
「え? それとはこれとは……」
「今現在あなたがすべきことは、一刻も早くこの世界のことを覚えること。細かいことはそれから先のことです。もし聞きたいことがあるのなら、何かに書き留めてまとめてからしなさい」
返事をしないうちに、厚みのある紙が数枚とペンとインクを机の上に置かれた。
こうなると取り付く島もない。優花は膝の上に乗せていた本を机に置いて、それらを近くに置いた。
受け取った紙は羊皮紙のようなものかと思ったが、渡されたそれはきちんとした紙だった。
ただ細かい工程を経て作られるものではないらしく、厚みがありかなりぼこぼこしている。それでも、紙をメモとして使えるくらいには、生産されているのだろうというのが窺えた。
それを手に取って、いくつか疑問に思ったことを書き留めた。
(……って、分からないことだらけなんだけど……。一つ一つ書いていかなきゃならないのかな?)
書き出すとなるとまた一つ作業が増える。
でも、ファーディナンドは、同じ問いに二回も答えてくれるような人ではない。同じことでなくても何度も質問していれば、鬱陶しく思うに違いない。
仕方ない、必要なことは書きためておこう、と新たにやることが増えたことにため息をついた。
***
しばらくすると、周りのことも多少は見えてくるものだ。
ここでの神は力を持ち人の支えという存在。そのため人とあまり接点がない存在かと思っていたが、想像とは違っていた。会おうと思えばいくらでも会えるという気軽さがある。
宮に納める寄付金によって、まるで神主がやるような祈願成就の祈りから、周囲に関わる深刻な内容のことまでと幅広い。
現在は祈願成就の祈りのために訪れる人の相手は優花で、魔物や領主がかかわるような深刻な問題はファーディナンドが対応する、という形になっていた。
表面上は仕事が分担されていていいように見えるが、優花には祈りに来た人の願いを叶えることが出来ない。
そのせいか期待に満ちた人の視線が痛かった。
前に、耐え切れずにファーディナンドに抗議したことがある。だんだんヒートアップしていく怒りに、ついに殴ってやろうかと思ったほどだ。
とはいえ、それを実行させてくれるほどファーディナンドはお人よしではなく、そして優花の動きのほうが鈍かった。
優花の考えなどお見通しのようで、反対に「力がないのにここにいるなら、それらしい振る舞いくらいしなさい」と冷たい目であしらわれる。
(力があったら速攻帰ってるからー!)
心の中で舌を出し、行き場をなくした怒りをなんとか抑えた。
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